紙に書き出すと、頭がスッキリする

楽しいことは頭に残して、つらいことは書いて忘れなさい

誰もが思うこと。
楽しいことはいつまでも覚えていたいけど、つらいことや嫌なことは、今すぐにでも忘れ去りたい。

つらいことは書き出せ

人間の脳みそは、良いことも悪いことも覚えておこうと努力するものらしい。

良いことは覚えておきたいけど悪いことは忘れたいってときは、悪いことだけを紙に書き出すといいですよ。

紙に書き出すと、脳みそが「書いたから、覚えておかなくてもいいな」って判断してくれて、忘れることができるみたい。

つらいことがあったら、忘れるために書き出そう。

誰にも見せるな。自分にも。

つらいことを書きだしたノートなんて、人に見せるものじゃないから、自由に書きなぐるようにして書けばいい。

ただし、「自分しか見ないし」と思って、好きなように書きなぐっていては、いつか痛い目を見ることになるかもしれない。

つらいことがあったときは、ただただそのつらいことについてのみ書き出せばいい。そのノートに登場人物を作ってしまうと、「私のつらいことの原因は、この人なんだ」と思い始めてしまう。

もちろん、その人が原因でつらいことが起きている場合もあると思います。そういう人とは距離をとるなりして、できるだけノートに登場させないようにしていくことも大切。

人を恨むと、つらいことはどんどん増えていく気もするから、自分も見返したりしないようにすること。

恐るべきノートの誕生

つらいことばかり書いているノートの内容が、我が子のことばっかりだったらどうする?「私のつらいことって、子供が原因なのか」と考え始めてしまうかもしれません。

こうならないためにも、自分も見返さないことを守らないといけない。つらいことを忘れたいためのノートなのに、見返すと余計につらくなる「恐るべきノート」になってしまう。

つらいことは紙に書き出して忘れてしまえばいい。
ただし、自分も含めて誰にも見せてはいけない。

そのノートは、つらいことを忘れさせてくれる魔法のノートであると同時に、見返すとつらいことを倍増させる恐るべきノートでもあるから。

命の重さ

命は泡よりも軽くても、死体は鉄のかたまりよりも重く

「物理的な重さ」と「哲学的な重さ」は、全然違う。

実際に手に触れることができる体と、触れることはできないが、確かにそこにある概念のようなものとの比較。
にしても、なぜかこの言葉って人を引き付ける効果がある。

哲学的な一文だからか。

大人も子供も考えさせられる

作中では、中学生の心理描写として書かれている一文なのだが、中学生の感性とは思えないし、逆に、中学生だからこその感性だともいえる。

命の重さを理解できる中学生もたくさんいるとは思うが、その重さを理解できずに過ちを犯してしまう子もいる。

大人になれば、人の死に対する考え方もある程度経験した分、若い時とは違っていると思う。でも死体の重さは別問題。
死体の重さを経験したことのある人は、そんなに多くないんじゃないかなと思う。

誰もが命の重さを確認する日が来るとは限らない

なぜか考えさせられる一文ですよね。

「命は軽く、死体は重い」

死体の重さを確認する日がボクにも来るのだろうか。

今を生きる

目の前にあることを精一杯こなしていけばいいのではないでしょうか

将来が不安になる気持ちは分かる。だけど、今の一瞬一瞬の積み重ねが、未来につながると考えれば、結局は、「今」を精一杯生きることしかできない。

やっていればマイナスにはならない

やりたいことが見つからないといって、何もしないよりも、とりあえず今、目の前にあることをやり始めてみる。

いつかやりたいことが見つかった時に、あの時精一杯やっていたことがマイナスになることはないんだから。

逆になにもしていないと、あの時やっておけばよかったなと後悔することはある。

目の前に集中

21世紀の日本に生きている社会人ならば、目の前にやらないといけないことが、ひとつもないと言える人なんて、きっといないでしょう。

「ない。」と言っている人は、ダラダラ過ごしたいだけで、現実逃避しているのではないでしょうか。

やるべきことは常に目の前にある!

少数派でいることを恐れないで

いちばん最初に糾弾する人、糾弾の先頭に立つ人は、相当な勇気が必要

少数派を恐れずに、言いたいことを言えるようになるのは大切なこと。
誹謗中傷は、少数派の先頭に立っている人の後ろに隠れて、ストレス発散している人が言っているのだと思う。

人を責める。それも一番最初に責める。これは勇気がいる行動だと思う。

悪いことをした人を責めるだけなら簡単にできる。
だいたい責める側の人間というのは大勢いるもので、その中の一人になればいいのだから簡単にできてしまう。

責める人たちを引き連れて、先頭に立ち、悪いことをした人を責める立場になるのは、すごく勇気が必要な行動。

ほとんどの人がストレス発散目的

先頭に立つ人の後ろで、自分もあたかも善人なふりをして、糾弾するのは、ただそこにいる人になっているだけ。ただそこにいて、悪い人を責めたい欲求を満たしているだけなのだと思う。

別に自分の中には、その人を責めたいとか、理念や信念、考え方なんてなくて、ストレス発散したいがために利用しているとしか思えない。

SNSでは簡単に作り出せる

SNS全盛期の今では、簡単にそんな人を作り出せるし、悪い人もどんどん作り出せてしまう。そんな人たちには、人を裁く権利なんてないにもかかわらず。

誹謗中傷を言う人っていうのは、先頭の後ろにくっついている人たちが、自分の考えなんてなしにやっていること。

先頭に立っている人っていうのは、理路整然として、自分の意志をもって、言っている人たちなんだろう。

人を責めるのは簡単にできる。後ろにくっついて責めればいいだけなんだから。
でも、それが原因でSNSなどでは、命を落とす人がいるのも事実。

自分の考えや言葉には、たとえネット上であっても責任をとれる行動をするべきだ。

さいごに

広い世界には必ず、自分を受け入れてくれる場所があると信じてほしい

自分が今いる環境だけが、この世界のすべてだと思ってはいけない。ボクがそうでした。

職場の環境が嫌で嫌で、だけど、やめたら生きていけないし・・・って思っていて、ますます自分の殻に閉じこもって世界を狭めていた時期がありました。今ならわかる。仕事なんてたくさんあるってこと。

世界は狭くない。今、自分が生きている環境だけが、この世界のすべてなんだと考えていてはいけない。

世界は広い

傷つけられる者って、集団生活をしている限り存在するものだと思います。

心の弱い者が傷つけられる。その人が、さらに弱い者を傷つける。傷つけられた者は、耐えるか死を選ぶしかないわけではない。

逃げたっていいんだ。

今いる場所が、自分の居場所ではなかっただけで、この広い世界の別の場所には、あなたを必要としてくれる、もしくは、守ってくれる人たちがいる。

逃げることは悪いことじゃない

今いる場所が全てで、ここから出ていってはいけないんだということはない。むしろ、出て、広い世界でいろいろと経験を積んでいく方がきっといい。

多くの人は、ここから出ることは、逃げることで、恥ずかしいと思っている。
「逃げる」っていうと、悪いイメージがつくかもしれないけど、決して逃げるわけじゃない。ここから新しい世界に探検しに行くくらいの気持ちでいればいいと思う。

勇気を出して一歩踏み出そう。
もっと広い世界を知れば、人生楽しく生きていける。