雑念だったり、雑音だったり

日常生活は、意外に細々としたスケジュールに区切られていて、雑念が入らないようになっている

自分が意識してスケジュールを立てたわけではなくて、無意識的にスケジュール化されている行動っていうものがある。

歯を磨いたり、顔洗ったり、トイレ行ったり、お風呂入ったり、こういうのは意識をしなくても体が勝手に動いている。日常生活は、反射的に行動していることだらけ。

意識は自動的に切り替わる

人間は、一度疑問に思ったことを永遠に考え始めてしまう生き物です。

あまりにも長時間、思考し続けていると、いつもの日常生活を送ることができなくなる。なので、自動的に意識が別のものに切り替わるようになっているらしい。

習慣とは

無意識的にスケジュール化されている行動、つまり細かく区切られたスケジュールが習慣ということになるんだと思う。自動的に意識を切り替えようとする行動が習慣。

雑念が入らないようになってはいるけど、ある程度の時間がたってくると雑念が入ってくる。

日常生活の半分くらいは習慣によるものだとは聞いたことがあるが、実際に自分の一日を振り返ってみると、80%くらい習慣なんじゃないかと思う。いらない習慣ばっかりなんだけど・・・

夜のピクニックのように、無心になれる瞑想のようなものを日課にするべきなのかもしれない。

雑音だって、お前を作ってるんだよ

自分だけが正しいなんて思わないこと。

自分の道をただひたすらに突き進むのも重要だが、ノイズを聞くこともきっと大事なこと。

ただ前だけを向けばいいわけじゃない

ひたすらに自分を信じて、前に突き進む姿はカッコいいし、そういう人を見たら尊敬する。だけど、前に見えている景色だけを見ているだけじゃなくて、自分の横や後ろにも景色は広がっていることを理解することも重要。

周りの景色をすべて堪能できた方が楽しいし、自分の視野も広がると思う。

ノイズにも意味がある

今の自分が目指している先には必要がないようなことにも、耳を傾けていた方がいい。
今、必要がないと思っているだけで、未来はどうなるか分からない。もしかしたら、役に立つ時が来るかもしれない。

そのノイズが未来にプラスにならなかったとしても、マイナスにはきっとならないから。

今の自分を十分に楽しんでいる人は、自分の周りのすべてを見ている。
その景色、その音、その声は、きっと、その時、その場所でしか、体験できないものだと思う。

後になって後悔しても、もう遅い。時は巻き戻せない。

そっとしておく優しさ

引き算の優しさ

人の持つ優しさとは2種類あるらしい。
ひとつは、「足し算」の優しさ。もうひとつは、「引き算」の優しさ。

足し算の優しさ

だれもが一度は経験するような優しさ。
自分から相手にすることもあるだろうし、相手から自分にされることもある優しさ。

足し算の優しさとは、人になにかをしてあげる優しさのこと。

若い時は、たいてい皆この優しさを経験すると思う。友人や恋人に、何かをしてあげたいとか、何かをあげたいとかっていう優しさが、足し算の優しさ。

引き算の優しさ

足し算の優しさに対して、引き算の優しさというものがある。
なにかをしてあげたいっていう足し算の優しさの逆で、なにもしない優しさを引き算の優しさという。

足し算の優しさが若い時の優しさなら、引き算の優しさは大人の優しさだと考えられる。

あまりピンときませんよね。ボクもピンときてません。まだ大人の優しさに気づけていない。
良いように言うと、温かく見守るといった感じ。悪く言うと、冷めているって感じかなと思う。

人になにかをしてあげる「足し算の優しさ」も大切だけど、なにもしないで上げる「引き算の優しさ」も身につけたいものですね。

恋っていうのは、もどかしい

どこまでが恋に恋していて、どこから先が恋人に恋していると決められるのだろう

『恋に恋する』と「恋人に恋する」は違う。だけど、線引きは難しかったりします。

恋人ができたとして、それは、「恋に恋する」気持ちが成就したのであって、その恋人じゃなくてもいいかもしれない。なんか、寂しい言い方だけど・・・

恋人がいても恋に恋する?

恋人がいない人が、「恋に恋する」っていうのはわかる。
でも、恋人がいる人も恋に恋しているのだろうか?

恋人がいる人は、「私、恋している」と思っているけど、それは「恋に恋している」という気持ちが成就したのであって、その恋人でなくてもいいのかもしれない。そんなこと言ってると、寂しくなってくるけども。この線引きっていうのは意外と難しい。

どっちに恋しているかは本人にもわからない

恋人がいるからといって、その恋人に恋をしているわけじゃないという人もいると思う。

恋に恋しているから、だれでもいいから恋人作っていれば、「私、恋している」っていう気持ちになって満足している人もいる。
でもそれは、「恋に恋している」のが実ったのか、「恋人に恋している」のが実ったのかはわからない。
分かっている人もいるのだろうけども、本人すらわかっていない人もいると思われる。

好きという感情には、答えがない

感情に対して、答えを求めるのも変だと思うけど、ずっとモヤモヤしていることが、好きという感情なんじゃないだろうか。

答え合わせができないってこと

「好き」ってなったら、何がどうなったら正解で、なにがどうなったら不正解なのかわからない。

「好き」という気持ちを相手に伝えて、返事がイエスなら正解で、ノーなら不正解っていうのも違う気がする。
相手からの返事だけで、「好き」という感情のすべてを判断するのは間違っている。

自分の心で答えを出せばいいのか

「好き」という感情は、自分の心の中で生まれる。

自分の心の中で、「好きだ」という気持ちを大切にするだけでも、その人にとって十分なのであれば、それはきっと正解なんじゃないかなと思う。かといって、「好き」という感情は、言葉で伝えてこそ意味があるという気持ちもある。

伝える。伝えない。どっち?

伝えてこそ意味があるのなら、伝えるは正解で、伝えないが不正解ということになる。

伝えなくても、自分の心の中では「好き」という感情が存在しているわけだから、「伝えないから不正解」では、無感情で生きるのが正解ということになってしまう。
伝えるのが正解であっても、相手の返事がイエスかノーかで正解か不正解かが変わってしまう。

結果、答え合わせなんてできないんだろう

人間の脳みそが発達しすぎなんじゃないかと思う。
なにかしらの答えが出ないことには、無限にモヤモヤしたり、ハラハラしたりしないといけない。ってことになる。

どんどん訳がわからん話になってきたけど、「好きという感情」に答え合わせができることなんてないんだろうな。

さいごに

夜のピクニックも瞑想の一種なんだろうな。
頭の中がモヤモヤするけど、整理されていく感覚を味わえる。